手の中の、君








手の中の、君-1-




「今日の予定は特になし、か」

 椅子の背もたれに身体をあずけながら、ヴェルハルトは溜息(ためいき)交じりに呟いた。
 首だけ動かし、周囲を見回す。大理石の壁と、それに飾られた高価そうな絵画が目に入った。床に敷かれている絨毯は落ち着いた赤色で、踏めば足底が沈むほど分厚い。そこここに飾られた調度品のひとつひとつに、いかにも高級であるといわんばかりの風情がある。豪華で上品な装飾が施されたパルトス宿屋の食堂ホールの一角で、彼はひとり時間を持て余していた。
 彼―ヴェルハルト・バラッグ。若干十七歳にしてその実力はパルテ一と謳(うた)われる、鬼才の剣豪である。
 もっとも、彼の名がパルテに知れ渡っている理由はそれだけではなく、その威風堂々(いふうどうどう)とした立居振舞(たちいふるまい)や、長身かつ眉目秀麗(びもくしゅうれい)な容姿もまた彼が注目される理由のひとつなのだが、そのへんの事は俗世間に対する関心の薄い彼の預かり知らぬ処で展開されている。
 実際、先ほどから周囲の視線は時々感じているのだが、たいした人数でもないので気にも留めていない。宿泊客でごった返す武道大会前ならば話は別だが、食事時を少し過ぎている食堂に人影はそれほど多くなく、離れた席に二、三人の客がいる程度だ。
 目の前のテーブルには、品の良いデザインのコーヒーカップが乗っている。そこから立ち昇る湯気の白い筋を眺めながら、彼はもう一度呟いた。
「…暇だな」
 視線をコーヒーカップから脇の窓の外へと移す。食堂内でも通りに面した窓際の席なので、パルトスの美しく整備された街並みが良く見渡せる。
 穏やかな朝の光の中を行き交う人々。程度の差こそあれ、皆一様に小綺麗な格好でゆったりと歩いている。ごくたまにハンターや旅人のような身なりをした者の姿も見かけるが、他の町では当然のように見かける彼らも、この町では妙に浮いた存在に感じられる。そして、ここに座ってそれを眺めている自分も、そんな彼らと大差ないのだろう、ぼんやりと彼はそんなことを考えた。
 パルトスの町全体がそうであるように、彼が―正確には彼と彼の仲間が―泊まっている宿屋もまた例外なく瀟洒(しょうしゃ)な造りをしている。大理石の壁だの高価そうな絵画だの床に敷かれた分厚い絨毯だのと、外観に伴って内装もまた然(しか)り。彼が今着いているテーブルや椅子も、おそらくかなりの値打ち物なのだろう。しかしパルテに住むとはいえ、ひたすら修行に明け暮れ、質素な生活を送ってきたヴェルハルトにとって、そこはあまり落ち着かない環境といえた。
 しかめっ面に腕組み姿勢という、周囲の雰囲気にさっぱり溶け込まない様子でしばらく窓の外を眺めていると、背後に軽やかな足音とともに近づいてくる人の気配を感じた。
「おはよう、ヴェルハルト」
 彼が振り向くより早く、その人物が声をかけた。ひとりの少女が彼の向かい側の席に座り、穏やかな笑顔を浮かべる。
「…ああ、おはようマーシア」
 彼のトレードマークのような仏頂面が心なしか和らいだ。
 マーシア・アクイ・クオーツ。それがこの寡黙な剣士の態度を軟化させた少女の名前である。遠くジハーダの地、ルーサの術法学院の白眉(はくび)、自然魔法の天才とも呼ばれる程の人物だが、彼女の優しげな顔立ちや、どことなくのんびりした言動からは、そんな気負いは少しも窺(うかが)えない。
「駄目ね、私ったら。すっかり寝坊しちゃったみたい」
 マーシアは苦笑いを浮かべつつ、注文を取りに来たウエイトレスにパンと紅茶、と告げた。
「今日はかまわないだろう。まだ情報がないから動きようがないとアレクは言っていたしな。…それよりマーシア、朝メシはそれだけで大丈夫なのか」
「だって、朝からそんなに食べられないもの」
「それにしても、いつもはもう少し取っていただろう」
「大丈夫よ。今日はダンジョンの探索もモンスターとの戦闘もないんだから」
 マーシアは生来の低血圧症持ちである。世間一般のテンポからは多少のズレがあるものの、彼女は面倒見の良いしっかり者だ。そんな彼女もこの持病のせいで、朝は起きてくるのに精一杯という様子で、今日のように遅れてやってくることも度々ある。アレクたちと旅をするようになるまで、朝食もほとんど取っていなかったようだ。
「ところで、皆はどこへ行ったの?部屋にはいなかったみたいだけど…」
「アレクはギルドに行っている。久遠の大樹についての情報はまだ無いようだが、ギルドマスターと少し相談することがあると言っていた」
「相談?何かしら」
「帰ってきてから話すと言っていたが…。情報が入るまで他の土地のギルドを回りたいとも言っていたから、その場所の検討じゃないのか」
「きっとそうね、アレクの事だから…。シェリルたちは何処へ?」
「各協会だ」
「ルッツとテオも?」
「ああ」
 そう、と呟いてマーシアは話している間に運ばれていた紅茶のカップを持ち上げた。
「じゃあ、暇なのは私たちだけなのねー…」
「ああ。俺も今日一日どうしようかと考えていた」
「本当ね。どうしようかしら」
 つと沈黙が落ち、マーシアは何かを考え込んでいるようだった。俯(うつむ)いた拍子に、緩やかに波打った明るい栗色の髪が揺れた。それと一緒に、両耳につけた銀色のイヤリングも揺れ、朝日を反射してきらきらと光る。
 そのきらめきを眺めながら、ヴェルハルトはすっかりさめたコーヒーを口に運んだ。
 飲み終わらないうちに、そうだわと、マーシアが顔を上げた。
「じゃあヴェルハルト、私とデートしましょうよ?」
 げふ。カフェインなどより余程目が覚めそうな提案に、ヴェルハルトがコーヒーにむせて答えられなかったのは言うまでもない。
「もう、大袈裟ねえ。冗談よ」
「げほ。冗談…、あのな、ごほ」
「デートは冗談だけど、あなたにお願いがあるの」
 朝から出来の悪い冗談はやめてくれ、ヴェルハルトは本当はそう言いたかった。
 けれども結局は反撃不可能なマーシアの笑顔に阻まれて、ぶっきらぼうに返事をするだけに留まった。
「……何だ」
「あなたの家にあった、リシャルトさんの蔵書を見せて欲しいの」
「兄さんの本を?」
「ほんの一、二冊で良いのだけれど…。駄目かしら?」
「いや、かまわないが。しかし、兄さんの本のほとんどは科学書だったと思うのだが…。マーシアの役に立つのか?」
「ええ。前にね、リシャルトさんを訪ねたとき、本棚に術法とアイテムに関する理論書を何冊か見かけたの。それでずっと気になっていて…」
「術法とアイテム?」
「たぶんステータス異常の治療や予防のためのアイテムについての本だと思うの。私、状態変化の術法に関しては知識が浅いから、アイテムとどう繋がるのか、ぜひ知りたくて」
「そうか。ならば、マーシアの食事が終わったらすぐに行こう」
「いいの?ありがとう。行き掛けにギルドに寄ってアレクに一言いっておかないといけないわね。…でも、読む時間を考えると帰りは夕方になってしまうかもしれないわ。あなたを今日一日私の用事につき合わせてしまって、本当に良いのかしら?」
「気にするな。どうせ暇を持て余していたのだから。…それよりマーシア」
「え、何かしら?」
 マーシアの前に置かれた、パンの皿を指してヴェルハルトは言った。
「俺の家までは結構歩くぞ。やはりその食事では心許(もと)ないと思うのだが」
 唐突な指摘にマーシアは一瞬呆れたような表情を浮かべたが、すぐに通りかかったウエイトレスを呼びとめた。ゆで卵とサラダ、それと紅茶のおかわりを。彼にもコーヒーをもう一杯。注文を終えると、ヴェルハルトに向き直った。
「これで良いかしら?」
 ダークブラウンの瞳を細め、マーシアは柔らかな笑顔を浮かべた。まさに、可憐、という形容が相応しい笑顔だった。
「そう、だな…」
 まだ少ない気がするが、と付け足したかったがやはり実行は出来なかった。
 ヴェルハルトにとって、マーシアの笑顔ほど防御も反撃も出来ないものはなかったからである。



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